断酒会の生い立ち
わが国でアルコール依存症者が断酒に挑戦した歴史は古い。明治8年、横浜港でアルコール依存症の外国人船員と地元の港湾労働者によって、横浜禁酒同盟が結成されたのが記録の上では最初だが、数年で消滅した。
明治20年には全国の浄土真宗の門徒によって、京都反省会という禁酒組織が誕生した。最盛期には5,000名を超える会員がいたが、生涯断酒部門、佛事禁酒部門(法事などの佛事の時のみ禁酒)、節酒部門に3分割していたため、会員の一体感が損われて消滅した。
京都反省会発足とほぼ同時期、みずからもアルコール依存症であったハワイ総領事・安藤太郎によって、日本禁酒同盟が結成された。同盟は全国各地に禁酒会を発足させるまでに拡大したが、「酒は諸悪の根源である」という廃酒主義に重点を置いたため、広く社会に受け入れられず衰退することになる。
しかし、昭和20年代半ばに、同盟の中の断酒部門がAA方式を導入することで、断酒継続者が出始めた。彼らは昭和27年、同盟で東京断酒友の会を結成した後、1年ほどで同盟を出た。袂を分かった理由は、自立を求めて同盟の傘の中から出たかったことと、もともと酒を飲まない廃酒主義者の指導に対する反発と、AAの12のステップを、信仰最優先に同盟側が意訳していたため、無宗教の会員は馴染めなかったらしい。
経済力をもたず、会長のリーダーシップが支持されなかったため、東京断酒友の会はやがて消滅した。しかし、約10年後、全日本断酒連盟結成に大きな役割を果たした、東京断酒新生会に与えた影響は大きい。
酒そのものの害を追求する禁酒会活動と、自分の飲酒の害に目を向けた断酒会活動では根本的な違いがある。禁酒同盟がいくら努力しても、こうした結果が出るのは致し方のないことであろう。横浜禁酒会と京都反省会にしても同様である。
自分の酒害問題を解決するため、依存症者だけで地域で発足した最初の断酒会は、昭和33年11月、松村春繁と小原寿雄の2人がつくった高知県断酒新生会である。東京断酒新生会はすでに発足していたが、まだ禁酒同盟の傘の中にいた。高知県断酒新生会結成のきっかけは、同年9月、禁酒同盟の小塩完次が来高した時、松村のかっての主治医・下司孝麿が、小塩によるAAをテーマにした講演会を開催したことにある。松村はその時まで1人で1年半断酒していたが、もう我慢には限界があるのでは、と不安になっていた。
小塩の講演はわずか1時間で、AAの12のステップまで踏み込めなかったが、松村は1人では難しくても、依存症者同士が支え合えば容易に断酒できると理解し、その場で断酒会結成を提案した。これに小原が応じ、AAが2人でスタートしたように、高知県断酒新生会も松村、小原の2名で発足した。準備に少し時間を必要としたので、正式のスタートは11月になった。
この年の入会者は全部で4名であったが、飲酒王国土佐では断酒会結成は大ニュースで、翌昭和34年には入会者が相次いだ。もちろん、本人や家族たちから直接相談を受けた松村らが、地域で積極的な相談活動を展開した結果であるが。しかし、この年の70名を越える入会者は、残念ながら全員脱落した。 |
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