いのたま
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(3)★しゅとうるむ・うんと・どらんく(疾風怒涛) -3-2001/05/06

カウンセリングを止めた半年後、わたしはイエローページで見つけた神経科クリニックに行ってみた。何となく良さそうに思えたからだった。薬貯蓄が目的だったので、でも、のまずにためこんだ。1カ月後、一気に過服薬自殺を図り、今度は外科に運ばれた。

どうやら、私は体が丈夫にできているらしい。この時も3日くらいで退院できた。そして、母に付き添われてクリニックに行き、いくつか心理テストを受けた。ロールシャッハ・テストの後、「実のなる木を描いてみて」と言われ、家にいたくなかった私は入院したくて、わざと変な絵を描いた。医者は、その絵を観て、
「良くなりたいという氣持ちはある」

クソ、失敗した、と思った。完全にふてくされた私に、医師は、処方した薬では死なない、度重なる自殺未遂と入院で家計は大変なことになっている、おかあさんは注意はしないが心配している、と言った。そして、
「学校はどうする?」

わたしの出席日数は半分以下だった。これから全部の授業に出なければ進級できないと言われていたことも、自殺を図った原因の一つだった。医者は、
「休学する、という方法もあるよ。ゆっくり休んで、来年の四月から行けばいい」
わたしは大きくうなずいた。母は渋ったが、この医者が説得した。2、3日後、母は高校に休学届を出し、わたしは「学校に行かなきゃいけないのに行けない、行きたくない」という圧迫から解放された。

それから間もなく、わたしは治療を中断した。数日間、やたら高揚した気分が続き、世界がとてもきれいに見えた。2、3時間しか眠らなくても平気だったし、過食していた頃が嘘のように少食になった。一日の食事は、りんご一個とヨーグルトだけ。空腹感が心地よかった。自分の問題行動は世間が悪いからで、治療を受けること自体おかしいと思った。この時の異様な多幸感は、だいぶ後になって大量服薬のために起きた離脱症状だと言われた。

それに、我が家の経済状態はわかっていた。それをさらに圧迫したのは他ならぬわたしだから、治療費を出してもらうことに無意識的に引け目を感じていたと思う。休学中、多少の問題行動はあったが、家族は黙認した。通院しろとは一度も言われなかった。精神科に対する偏見が、今よりもずっと強かったせいかもしれない。

翌年4月、復学して、2度目の高校2年をやり直した。1学期は半分以上通ったが、2学期に入ると、またしても不登校が始まった。

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