いのたま
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(5)★しゅとうるむ・うんと・どらんく(疾風怒涛) -5-2001/05/27

17歳から18歳にかけて、生活は荒れていたが、定期的に通院した。当時の主治医は、一連の問題行動を一度も非難しなかった。思春期の問題行動は「してはいけないこと」だからこそしたいわけで、「武勇伝がいっぱいあるね」と言われては、意味を失う。三学期に入ると、少しずつだが学校に行けるようになった。

2度目の高校2年の3月、やはり自分の人生は終わりだと思う。今度は雪山で凍死しようと考えた。家から風邪薬と頭痛薬を全部持ち出し、ワインを一本仕入れてローカル線に乗った。目的地は県内、以前の家出&自殺未遂よりも、ずっと近い場所だった。家の通帳を盗めば、もっと遠くに行けただろう。でも、もう家族に迷惑はかけられない。

終着駅からバスに乗り、山に上がると、どんどん雪が深くなった。バスが終点に着くと、一面真っ白だった。私は適当な場所を見つけ、寝ころんだ。この日は三月一日だった。ちょうど二年前、わたしは初めて精神科に行った。あの時はまだ可愛かった。悪さも少ししか知らなかった。ほんの2年前の自分を懐かしく思いながら、ワインをあおり、風邪薬、頭痛薬、残りの処方薬をのんだ。

だが、またも目が覚めた。朝の光の中で周囲を見渡すと、ここはどこかの畑らしかった。こんな所で凍死しようとした自分がバカに思えた。人が来ないうちに退散しよう。しかたなく立上り、道路に向かった。でも、足がすっぽり雪にはまって、動きが取れなくなった。どうにもならなくなって、わたしは叫んだ。
「助けて! 誰か助けて!」

叫んで体力が尽きたのか、意識を失ったらしい。いつの間にか、やけにぬるい風呂に入れられていた。中年の女性がわたしの手足を触り、「凍傷にはなってないね。あんたは運が強いね」と言った。そして、茶の間のこたつで数時間眠った。外は零下の寒さなのに暖かかった。

昼頃、目が覚めて、風呂に入れた中年の女性から、私を発見したのは駐在だと聞いた。ここは駐在の自宅らしい。だとすると、この女性は駐在の妻なのだろうか。頭がぼんやりして記憶が定かではないが、夫婦だと言っていたと思う。駐在は、母の職場に電話をかけたが、母は迎えには行けない、と答えたらしい。駐在夫妻はひそひそ声で、
「なんだか冷たいよ、この子の家」
最初に北海道で自殺未遂した時、母は飛行機で駆けつけた。でも、もう来ない。寂しかったが、度重なる自殺未遂と問題行動に疲れていたのだろう。

駐在夫妻に丁寧に礼を言い、わたしは一人で家に帰った。電車の中で、一人で生きていくしかない、と思った。でも、どうやって? 帰宅してから、当時の主治医に電話をした。電話をかけるのは初めてだった。すると、
「電話じゃわからないから、明日おいで」

翌日の診察時、わたしは泣いたり、ゴネたり、さんざん医者を困らせた。結局は、こう提案された。
「じゃあ、こうしようか。まずね、今は学校に行くことだけ考えればいい。将来のことは、それから考えればいいよ」
その日から、時々サボっていた服薬を毎回必ず守った。何度もの大量服薬で体が弱くなっていたのか、よく風邪をひいたり、微熱を出したので、漢方薬が処方された。煎じるタイプは面倒だったが、小鍋で煮出して飲んだ。実家には、今もその小鍋が残っていて、当時の家族のことを思うと、複雑な気持ちになる。

学校も、できるだけ行った。本当は出席日数が足りなかったが、進級させてくれた。高校三年は出席日数ギリギリだったが、卒業できた。ただ、まったく勉強していなかったので、大学受験は失敗した。通院しながら浪人し、翌年、合格。

大学に入る時、医師から「また何かあったら、連絡して」と、治療終了のサインが出た。あの時の解放感は今でも忘れられない。わたしは20歳4カ月になっていた。
(了)

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